The All
エッセイの言葉の変更について、
読者からいくつかメールが届きました。
そうです、ここなんです
いちごさんも同じところが気になっていたとわかって
とても嬉しかったです
というようなものと、
どこだったかしら?あそこかな?
というようなものと。
きっと、
「え?どこかなおしたの?」
というような人もいるはず。(笑)
全部よし、です。 おーるおっけー。
私は、
みんながしっくりくるようなこともびっくりするようなことも、
これからも書いていくと思います。
その時々の自分の言葉を探しながら。
どの私もこの私です。
私を(何かの間違いで)崇拝するような人は、
私が失敗したり間違ったりした時に、それを見て、
ただがっかりするだけでしょう。
けれどそれは私とは何も関係ないことです。
その場からがっかりするようなことしかみつけられない、
その人の都合です。
自分の見たいようにしか、ものを見れない人の都合です。
「夏野苺」のことも、
自分の見たいようにしか見れない人の都合です。
でも、
どんな私を見ても(たとえ左右違う靴下でも!笑)
変わらぬ想いでこのエッセイを読み続けてくれる人もいるでしょう!
たとえば、本を読む時、
そこに書いてあることが正しいか間違いかはさほど重要なことではありません。
本というものは(当たり前ですが)誰か人間が書いたものに過ぎないからです。
それゆえ、万人にとって完璧なものなどあるはずないでしょう。
重要なのは、
今ここでその本に自分が出会ったということ、
そこに書いてあることから自分が何をみつけられるか、ということです。
このことを忘れなければ、
間違っているであろうことからも光りをみつけることが可能になってゆきます。
そして、いつも
もっとも深い部分にフォーカスすることも忘れないでください。
エッセイで私が「朝食を食べない」と書いたら、
よし自分も真似しよう….ではなく、
なぜ食べないのかな?
…ああ、食べたくないからか。
よし、じゃ自分も自分の好きなことをしてみよう
で、いいと思うのです。
そこまで読み砕くことができると、
私とあなたが違うことを好きでも嫌いでも平和的にお互いを認めつつ、
仲良くできると思うのです。
Yちゃんからもメールがきていました。
「昨日、苺さんと話していたことをダライ・ラマは
宗教家としてでなく、一人の人間として語っていました。
宗教を科学と照らし合わせ、一人一人が経験とともに
分析をすることが必要だとも」
彼女は先日、来日しているダライ・ラマの講演を聴きに行ったそうです。
ダライ・ラマは、
カリヴァン博士と同じ意識状態の中にいる人のひとりだと
私は認識しています。
宗教家と科学者が手を結ぶ時代がやってきました。
ここに医者が入ってくると、
人類にとって本当に素晴らしいことになってゆくだろうと感じています。
私もひとりの表現者として、自分の限界を超えることに挑戦しつつ、
『The All』の中に融けてゆく感覚を求め続けてゆきたいと思います。
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