チカラが生まれるとき
「魔法使いの弟子」の連載が始まって、
たくさんの人から感想をいただいたけれど、なかでも
ページの中にある、ある写真についての感想を
とても興味深く受け止めた。
その写真は、
鮮やかな色の花束の中から、白い手がこちらを指差している写真。
(実はあれは、月の女神の手です)
色がないから白いのではなく、
光りが当たっているから白く見えるのだ
という感想が素敵だった。
怖い、という感想が一番多かったけれど、
それは予想通りだった。
なにもわざと怖がらせようとしたわけではなかったけれど、
あの写真を観て怖がる人は多いだろうなと思っていた。
シャッター切る時も、怖さに似た何かを感じてはいたので。
なにが怖いって、
人は「わからない」ものや、ことや、人に、恐怖を覚えるのだと思う。
あの写真から、咎めや、戒めみたいなものを感じて怖いと思った人は、
何か自分の中に「わからなさ」を抱えている人達なのだと、私は思う。
他からそこを指されて、どきっとするのではないかしら?
わからない、ということさえ、わかっていない人達…
まずは、自分のわからなさを知ることから始めたらいいと思う。
そうすれば、ふいに誰かに指摘されたところで
「そうなの。そこがわからないのよねぇ」と言えるはすだから。
答えを探しに行くのは、それからでいい。
何を求めているのかわからないまま
当てもなく歩き回ったところで、何にもならない。
人は皆それぞれ。
同じものを同じ場所で同時に見たとしても
隣りの人と自分がまったく違うものを得るということは多々あること。
他の人の感想を聞いて、自分と同じじゃなかったとしても
驚くことはなにもない。
同じでも違っていても、すべてその通り受け止めたらいい。
わからないものはわからないと言えばいい。
私は、
観た人がそこに自分の心を映し出すような、写真を撮っていきたい。
それが私の最も意図することであり、
「こういうふうな解釈をしてください」ということは求めていない。
ごくたまに、まったく私の思わぬことを、断定的に言われた時のみ、
「いや、それはそうではなく、こういう思いで撮りました」
と説明することはあっても、
それはあくまでも私の個人的な思いの説明でしかなく、
相手に対して、
「必ずこう解釈してください」という言い方をすることは絶対ない。
観る人がその時自分に観えるものを自由に観てくれたらいいと思う。
「魔法使いの弟子」では、これからも
写真作品をたくさん発表していきたい。
私は思想家や哲学者ではないので、
言葉だけで伝えるということではなく、
自分は「撮る人」なのだという意識で活動していきたいから。
見えるものや感じるものをたくさんの人に伝え続けていきたいけれど、
それは、
撮り続けていく、
創り続けていく中でしか、掴めないことだと思うので。
もし私が、
撮ることも創ることもやめてしまって、
言葉だけで語るようになってしまったら、
私の言葉はチカラを持たなくなってしまうだろうと思うので。
この手の動きは止めずに
進んでゆきたいと思います。
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